心のサークル(blog版)

心のサークルは、スピリチュアリズムを学べますが、オープンな初心者向です。

第152回 心のサークル報告

【と き】  2023716日(日)、14時~17

【ところ】  宮城県歯科医師会館+ZOOM

【参加者】 進行:US、記録:SK

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【内 容】 『シルバー・バーチの霊訓(1)』の読書会

 

 

3年ぶりにホーム・歯科医師会館に戻りました。

受付の方から「お帰りなさい」と笑顔で迎えていただき、戻ってきたんだなぁと改めて実感です。

この日は館全体での利用者は我らだけだったのでビルは貸し切り状態。さらにゆったり気分。やっぱり我が家はリラックスしますねー。

 

今回もSTさんは会場参加!それなのでZOOMはAKさんおひとりでした。

九州が大雨の被害があったばかりでしたがAKさんの大分市は無事だったとのこと。よかったよかった。このところいたるところで異常な自然災害が発生しています。そしてとにかく暑い! この現象は巷でよく言われている人為的なものなのでしょうか? それとも地球のデトックス、人間の営みの因果応報なのでしょうか。いつか気候は落ち着くのでしょうかねぇ? その答えはずっと後の時代に分かるのかもしれません。

 

STさんが宮崎駿さんの最新映画を観てきたそうです。

 

ST:内容はとってもスピリチュアルでした。アニメには「見えない世界」を人々の意識に浸透させる役目があるような気がしてなりません。

 

最近、YouTubeでプレアデスやシリウス、銀河連合などという宇宙存在からのメッセージが多く発信されています。光を求め、よりよい世界、精神的な向上を目指すメッセージは霊界のメッセージとそう変わらないような気がします。

 

SK:私もそう感じていました。イエスは太陽系を収めている霊団と言われていますよね。宇宙存在と霊界もきっと繋がっているのではないでしょうか。宇宙のメッセージを頻繁に耳にしていると、夜空の星は実在を伴う身近な存在になってきました。子供の頃、東京さえ遠かったのに今や焦点は宇宙。宇宙と交信ができる時代はそろそろでしょうか。

 

ワレワレハ地球人です。

 

 

 

シルバーバーチの祈りを唱え、輪読の開始です。

 

 

5章 霊的交信の難しさ

 

 

 

霊の世界では言語は使用しません。従って思念なり映像なりシンボルを霊媒に憑っている霊を通じて、あるいは直接霊媒へ伝える操作がまた大変です。これを霊視力を使ってやるとなると実に入り組んだ操作となります。p91

 

Hさんより質問。

霊界では言語は必要としない。思ったことがそのままダイレクトに通じるということは、隠しておきたいことも隠しきれないということでしょうか?

 

そーなんです! 想いが正確に伝わるのです。それはとても便利です。しかーし、私たちには隠したいこともあるわけですよね。コマッタナー。

 

先日ある霊能者の講演会へ行ってきたのですが、霊人がコンタクトしてくると、まずはオーラを読まれるのだそです。そこには自分の全てが記録されていて最初は慣れずに落ち着かなかったけれど、いまでは「はいどーぞ」と読まれるままにしているそうです。

 

人は誰しも(と思いますが)影の部分を大なり小なり持っています。その影を肉体のおかげで隠すことが出来ているわけです。そう思うと肉体はありがたいものでありますねー。

 

つまり肉体があるうちだけのこと。霊界に帰ってすべてがオープンになったとき恥ずかしくないようしっかりと今のうちに修行を積んでいきたいと思います。でもみんながそつのない人ばかりではつまらないような気もします。影があるからこその魅力というのもあるのではないでしょうか。

 

 

ところで、言語がなくても通じ合うということは、共通の概念があるということですよね?

 

歓びや悲しみの概念が一緒。愛に触れれば満たされるし、悪意には悲しみを覚える。この感覚は人間も霊界も同じってこと。当たり前のようだけど、それって真理が一緒だからということですよね。つまり根本は一緒という証拠ではないでしょうか? たとえば愛は共通言語。霊人とも宇宙人とも分かり合える共通した感覚。善、悪、美、哀、慈なども……。テレパシーでこれらが伝わって共感できるなら、どんな存在とも交流可能ということですね。

 

Q:もしかしたら植物や動物とも分かり合える?

 

US:はい、それがワンネスでしょう。

 

Su:言葉をもたない赤ちゃんが集まったとします。各国の赤ちゃんを集めたとしても彼らのコミュニケーションになんの問題もありませんよね。

 

たしかにそうですね!

 

Su:2歳位の子供たちを考えても、言葉が通じなくても一緒に遊べそうです。なにかが共通しているということなんですよね。

 

 

雑談が続きます。

 

US:オーラにはその人の性質が顕れます。青なら理性的 赤だと情熱的。

ミディアムはオーラを視ることによってその人の人生を読み取ることができると聞いています。データのようなイメージですね。

 

 

信念の話に流れます。

 

 

私たちからお贈りできるものは霊的真理しかありません。が、それは人間を物的束縛から解き放してくれる貴重な真理です。それがなぜ恨みと不快と敵意と反撃と誤解に遭わねばならないのでしょうか。そこが私には分からないのです。いかにひいき目に見ても、敵対する人間の方が間違っております。判断力が歪められ、伝来の教えのほかにも真理があることに得心がいかないのです。p95

 

 

 

地上で真面目に宗教に取り組んでいる人たちは死後もその教えに囚われたまま、仲間同士で幽界に長い時間留まってしまう状況があるようです。そこから救済するのは至難の業だそうです。

 

 

◇信じている道がその魂にとって満足であれば宗教の世界に幽閉されていても、本人は心地よいのかもしれませんね

 

◇ならば囚われの時間は不幸というわけではないのでしょうか? 

 

◇でも間違った教え一色の世界はやはりどこか奇妙で、なんか変だぞと思い、いずれは本人も必ず気が付くのでは?

 

◇権力構造のあるピラミッド型の宗教では底辺の多くの人は不満を覚え、この状況は変だと思ってくるのでは?

 

◇人には自由意志を行使したいという本能があるので、その欲求が気付きを誘発すると思います。

 

◇つまり、真理から離れると必ず気づくタイミングが現れるということですね。それが段階というものでしょうか。

 

 

宗教に限らず「信念」というのは厄介な存在になる場合が往々にしてあります。

その信念以外は認めない。囚われになるからです。

 

 

心のサークルも言われてみればスピリチュアリズムという信念を持っています。私たちも気を付けなければなりません。

でも、シルバーバーチの霊訓がもし間違っていたとして何か困ることがあるでしょうか?

 

例えば、見えない世界があること、人には自由意志があること、霊的進化を目的としているという信念。これがもし間違っていたら?

 

ST:スピリチュアリズムはそもそも制限をとっぱらいましょうという性質なので、このまま信じていて、結果間違っていたとしても困らないですね。

 

SK:そうですよね。たとえば死後の世界があるという信念ですが、もし実際、死後が無になったとしても、どうということはありません。無になった後、なんだよー「無」じゃねーか! と毒づくことも「無」であればできないわけですから。

 

 ST:スピリチュアリズムは自由そのもの。例えば何かを失ってもそこに意味を見いだしますし、変化も受け入れます。苦難も霊的にみれば気づきのチャンスと捉えます。流れに感謝して生きましょうという信念なのですから、元々なんでもありなわけです。宗教でも、家庭でも、制限されると窮屈ですよねー。

 

ところで、利他主義はどうでしょう? 

 

SK:利他が誤解されるのはそれを自己犠牲とか我慢という風に捉えるからじゃないでしょうか。利他主義は強制や義務ではないと思います。自由意志というか、欲求のような気がします。

 

するとこんな素敵な意見が寄せられました。

 

利他主義とは霊的な本能ではないでしょうか。     

思考でも倫理感でもない。自然に発するもの。それが利他だった、というのが利他主義の姿じゃないでしょうか? 

 

なるほど!そうですね。すごく納得です。

たしかに理屈で動いているうちはまだまだエゴかもしれません。

 

そこのところをシルバーバーチは次の一文でこう語っています。

 

霊の世界からこうして地上へ戻ってくるそもそもの目的は、人間の注意を霊的実在へと向けさせることにあります。ただそれだけのことです。地上世界の出来事に知らぬふりをしようと思えばできないことはありません。別段地上とのかかわりを強制される謂れはないのです。また人間側にはわれわれに対して援助を強要する手段はなにもないはずです。ですから私たちの尽力は全て自発的なものです。それは人類愛ともいうべきものに発し、援助の手を差しのべたいという願望があるからこそです。それも一種の利己主義だと言われれば、確かにそうかもしれません。愛というものは往々にして利己主義に発することが多いものです。p96

 

 

助けたいという気持ちも一種の利己主義と表現していますね。さすがの切り口! こういうところがシルバーバーチのおおらかな個性なのではないかなーと感じました。

 

使っている「単語」の議論は無意味だと思います。大事なのはその真意をどうくみ取るかという霊的センスなのではないでしょうか。

 

どう生きるか。それは自由。それぞれのベストをつくす。思いのままでよいのだと思います。

 

利他でも利己でも「真摯に生きれば」それでよいのかもしれませんね。

 

 

善のための努力が徒労に終わることは決してありません。人のためになろうとする試みが無駄に終わることはありません。善行に嫌気がさすようなことがあってはなりません。成果が表れないことに失望してはなりません。人のために役立とうとする志向は自動的にこちらの世界からの援助を呼び寄せます。決して一人であがいているのではありません。いかなる状況のもとであろうと、まわりには光り輝く大勢の霊が援助の態勢で取り囲んでおります。満腔の信頼を置き、それを頼りにすることです。p102

 

 

自分の善なる心を灯台に毎日の出来事を一つ一つ越えていければいいなと思います。感情の荒波の中で葛藤と決断の孤独な作業かもしれませんが、見えない存在がいつも側にいると信じましょう。

 

ここでホワイトイーグルの一節をご紹介。

 

一日に5分だけ心をゆったりして、自分のまわりに光り輝く存在がいてくださることを心を込めて思いなさい。

 

 

何時間も瞑想するのはなかなか難しいですが、5分なら出来そうです。忙しい脳を鎮めて霊界との通路を開けることは想像以上に大切なことだそうです。毎日家の窓を開け放ち空気を入れ替えるのと同じように、霊的な環境も整えることは確かにもっともなことです。

 

 

さて、霊的とか、霊力とはそもそも何をさしているのでしょう?

 

その霊力とは何かとなると、これがなかなか説明が困難です。物質的観点から見る限り手に触れたり目で確かめることのできないものだからです。しかし、あくまで実体のあるものです。

 

種子に目を出させ、花を咲かせ、実をつけさせ、樹木を太らせ、人間の魂を開発させる力と同じものです。

その顕現の仕方は無限です。生気を取り戻させるのもそうですし、蘇生させるものもそうですし、活気を与えるのもそうですし、再充電するのもそうですし、再興させるのもそうです。

98

 

 

霊力とは特別なことではなく、至る所に顕現しているものといってもよさそうです。私たちは霊力の中で生活しているのですね。そういう目で世界を眺めていけば、霊力の顕現が目に入ってきそうです。

 

 

霊界は肉体の世界とは比べようもないほど素晴らしいところだそうです。地上でそれを具現化できれば素敵ですね。どんな世界を体験していきましょうか。 

 

信頼に包まれている場所、仲間がいる場所、チャレンジがある場所。叡智に触れる場所、美しい植物があって、愛すべき動物がいる場所。朗らかな時間。

 

想像し続けているといつしか身近になってくるかも。思考は現実になる。そういうもののようですから・・・。

 

 

 

 

 

次回 第153回 心のサークル お知らせ

 

 

【と き】  2023年 820日(日)、14時~17時 

【ところ】 宮城県歯科医師会館+ZOOM

【内 容】 『シルバー・バーチの霊訓(1)』 

【持ち物】 上記書籍をご準備ください。

      <書籍が手に入らない場合はお声がけください。資料作ります。>

【参加費】 喜捨

【参加者】 シルバー・バーチの霊訓に関心があり、向上進化を目指す方どなたでも。

 

日常を離れた空間で、ともに学びましょう!

 

新しく参加希望の方は、本ブログコメント又は下のメール宛へご連絡頂けますと幸いです。お気軽にお尋ね下さい。

【メールアドレス】 kokoronosakuru@gmail.com