【と き】 2018年7月22日(日)、14時~17時
【参加者】 進行:US、記録:SK
US、ST、HM、UH、GS、IK、MM、SK 以上8名
【内 容】 『シルバー・バーチの霊訓(8)』の読書会
この日は35℃の暑い日でした!
今年の夏の異常さは、もう言い飽きてますね^^
それでもまだ仙台はよいほうで、どんなに暑くても、夜中過ぎると涼しくなることが多いので助かります。
先日、関東で頑張っている当サークルのSさんと電話で話をする機会がありました。
「こっちは40℃ですよ!」の言葉に、最初、その数字にピンとこなくて、体温かと思い、病気? と心配しかけたのですが、気温とわかり、そっか、そういうことかと思いました。
その日仙台は28℃くらいだったので、Sさんの地との差は10℃以上。
暑い地域の方々のご辛抱に頭が下がる想いです。
今回は長崎のUHさんが久々に参加してくださいました! 密度の濃い時間を過ごせそうな予感のする始まりでした。
IKさんのアンマの瞑想とUSさんのシルバーバーチの祈りで、読書会スタートです。
シルバーバーチ霊訓 第8巻
5章 質問に答える(三)
みんなで音読することは本当に気持ちのいいものです。
余計なことを考えず、すでに在る言葉に集中する。そんな時間は、霊力との同調がされているのかもしれませんね。
この章での質問はバリエーションに富んでいて大変刺激になる章でした。
人種問題
愛と寛容
真の道徳の基準
人口中絶と避妊
植物人間と安楽死
自殺の問題
死刑の是非
シルバーバーチの訓えは厳しいという意見をよく聞きます。
読んでみるとそうでもなく、ごくごく当たり前な道徳的なことを語っているなぁと思うのですが、それでも厳しいと言われます。
つまり、当たり前が、実はとても厳しくて、崇高だということですね。
そして、当たり前が故に、誰でもが近づくことができる。そこがシルバーバーチの霊訓の魅力であり、力強さだなぁと感じます。
何が正しいのか、どちらの行動を選ぶか、どんな言葉を使うか、選択ばかりの世の中。
できるだけ正しくありたいと願いますが、何を指針にしたらよいのでしょうか。
正しきことだと信じても、その選択を非難されてしまうこともあります。
その非難に怯み、迷ってしまったとき、自分の選択に自信がなくなってしまいます。そんな時に何を支えにすればよいでしょうか。
5章の冒頭でシルバーバーチはこう言っています。
「私は自分で正しいと信じて行動するかぎりそれは許されるという考えに賛成です。人間には例外なく神の監視装置が組み込まれています。道義心(良心)と呼んでおられるのがそれです。それがあなたの行動が正しいか間違っているかを教えてくれます」P120
自分の内なる心に問えばいいということですね。
本当にそれでいいのか? そこで頼りになるのは動機。
少しでも不純な動機が入っていると確かに胸に痛みを覚えます。そして、それを無視すると、後悔がもれなくついてきます^^
これまで何度もそのサインを無視して後悔したこと多々。
動機を考える。甘え、いつわり、損得、ごまかし、自己憐憫が少しも混入していないか? よく考えることが大事だと思います。
痛みを感じた時、それは霊界からのサイン。つまりサポートされている証拠。神秘との遭遇ですよね。感動の瞬間です^^
選択とは、カルマ解消のためのゲームなのではないかとも考えます。つまりチャンス。克服すべきことは、早めに克服したほうがいいにきまっていますよね~。意識して日々をすごせば少しは向上するかなぁと思われます。
さて、選択のレッスンの後は、愛と寛容です。
右か左かではなく、容量の問題。これは上級コースと思われます。
無限大に進化することができます。
寛容性は霊性の神髄です。偏狭な信仰のあるところに霊性はありません。p125
寛容になれれば素敵だろうなぁと憧れますが、自分の狭量さにいつも悩まされます
残虐行為や邪悪に対して寛大であってはいけないはずだ、との質問がありました。寛容とは何かを知る必要があります。
悪や残忍さや不正に対して寛大であれという意味ではありません。相手は自分より知らないのだという一種の我慢です。
人間は往々にして自分のしている事の意味が分からずに、全くの無知から行為に出ていることがあるものです。そこがあなたの我慢のしどころです。しかし、その我慢は悪を放任し黙認してしまうことではありません。それは我慢ではなく、目の前の現実に目をつむることです。真の意味の寛大さには洞察力が伴います。そして、いつでも援助の手を差し伸べる用意ができていなければなりません。
「一種の我慢」
このへん難しいですね。どう解釈するか読み手によって様々な気がします。
目をつむることではない我慢。洞察力がともなう我慢。なんとなくわかるような気がするのですが、ぼんやりとそのイメージは霞んでいます。現実社会で、実際の私たち個人的なそれぞれの障害を、どう我慢して、どう反応すべきか、悩みどころだなぁと感じます。
様々な価値観の坩堝の中で暮らしていると、毎日が摩擦と言ってもよいと思います。受け入れがたいことを強要されたり、同調を求められたとき(しかも、それが社会の常識だったり、権力者が絡むとそのハードルは高くなります)、どうすればいいのかわからなくなります。
自分の価値観を貫くべきなのか。相手の価値観の尊重はどうすればよいか? 戦うべきか。戦いたくないと思うのは弱虫か? 逃げなのか?
こちらが相手を尊重したとき、すかさず相手は自分の価値観を押し付けてきたりします。先手必勝。大声を出したほうが勝ちみたいなことが現実だったりします。
紳士的であろうとしたほうが我慢ばかりするようになる。損をしてばかりってことになりがちだなぁと思います。
寛大については、すごく難しいテーマだなぁと思います。
これについて、もっと語りあいたいと思いました。ぜひ、みなさまのご意見寄せていただければ嬉しいです。
You tubeでスピリチュアリストEさんの動画を何気なく見ていましたところ、そこで語られていた内容が、少しヒントになりました。
相容れない相手と時間を共にするという経験。それも感動なのだということです。不自由な経験も感動。
感動とは喜びだけではない。悲しみや孤独も感動。それは学びであり、大切な経験なのだと。…なるほどですね。
問題解決だけが人生ではないかもしれないですね。味わうことも重要な学びなのかもしれません。
人口中絶と避妊、植物人間と安楽死、自殺の問題。貴重なテーマばかりでしたが、最後の「死刑の是非」について、丁度たくさんの死刑が行われたばかりだったので、しばらくはその話になりました。
シルバーバーチは死刑についてこう語ります。
霊の教訓として私が躊躇なく述べていることは、殺人を犯したからといってその犯人を殺してよいとことにはならないということです。地上の人間は正義と復讐とを区別しなくてはいけません。
あれだけの事件を起こした責任はどうすればよいのでしょうか。
命をもって償うしかないというのはその事件の被害の重大さを考えると確かにわかるのだけれど、人には命を奪う権利は与えられていません。たとえ国家であっても。
私の解釈ですが、死刑は犯罪者の魂にたいしてなんの反省や向上も与えず、それどころか、来世でも同じ罪を犯してしまう原因になってしまったり、その恨みのエネルギーが暗黒界に利用されたりしてしまうからなのではないかなぁと思ったりします。
しかし、極悪人であっても必ず守護天使に見守られているはず。罪が償われて浄化されるまでどれだけの年月がかかるのでしょうね。
ワンネス。一人が向上すると全体が向上します。それを知っているスピリチュアリストはその「一人」にならなければならない責任があります。
一歩一歩丁寧に生きたいと思います。けれど、あまり気負わず、気楽に、そして謙虚に力強く。
今回の報告はこれまでです。では次回まで、皆さま、よき時間をお過ごしくださいませ。
次回 第96回 心のサークル お知らせ
【と き】 2018年 8月26日(日)、14時~17時
【ところ】 宮城県歯科医師会館(仙台市青葉区国分町1-5-1) 4F和室
入り口は正面玄関ではなく裏口になります。
入口表示板に、部屋がどこか書いてあります。ご確認お願いします。
窓口に医師会館の方が常駐していらっしゃいますので、
わからない時は声をおかけください。
【内 容】 『シルバー・バーチの霊訓(8)』の読書会:6章
【持ち物】 上記書籍をご持参ください。
【参加費】 喜捨
【参加者】 シルバー・バーチの霊訓に関心があり、向上進化を目指す方どなたでも。
日常を離れた空間で、ともに学びましょう!
新しく参加希望の方は、本ブログコメント又は下のメール宛へご連絡頂けますと幸いです。お気軽にお尋ね下さい。
【メールアドレス】 kokoronosakuru@gmail.com
又、これまでのメンバーの皆様は、出欠係の柴田までご連絡ください。