心のサークル(blog版)

心のサークルは、スピリチュアリズムを学べますが、オープンな初心者向です。

第72回心のサークル報告

【と き】 2016年8月21日(日)、14時~17時

【ところ】 仙台歯科医師会館 2F会議室 

【参加者】 進行:US、記録:SK

      IK、ST、SN、WM 以上6名

【内 容】 『シルバー・バーチの霊訓(6)』の読書会:6章、談話

 

 

 

35度。

どおりで暑いと思ったこの日の気温です。

あまりの暑さに仙台駅から医師会館までの距離が永遠とも思えるほど遠いと初めて思った日でした。

そんな暑さにもめげずに、いつものメンバー集結。

12時より同じ会議室で行われていたUSさん主催の「宮城気友会」に参加されていたWMさんが、読書会にも参加してくださいました。

ようこそ♪    

その為計6名の集まりでした。

 

USさんが「食べない人たち」(秋山佳胤著)

という本を読んだという報告で会はしばらくその話を。

----何も食べずに人は生きていける---を、身をもって証明・実践中の人が日本にいるそうです。

 

なにも食べないで生きている人がいる、という話を耳にしたことがある人は多いと思います。でも、それは外国の話で、インドの修行僧など特別なひとの類だろうと思っていたけれど、「不食の人」はどうやら普通に沢山いらっしゃるようです。

 

食べ物だけでなく水も飲まずに生きていけるのなら、何がエネルギーの元となるのでしょうか。

著者は空気中に漂うプラーナと語っているとのことです。

それは霊界でのエネルギーの話と似ていて、USさんは、人の進化が、地上でも始まっている証拠なのではないか? と仮説を立てられました。

 

加えて、「食べない」という治療法で難病を治したという人もいるそうです。

ドキュメンタリー映画不食の時代」でも発表されているようです。

 

治療困難の重い病気の原因が、日々の食事が原因だというストーリーは、種あかしとしてはとてもドラマチックです。

食事を見直す。あながち不食という治療法はいい線をいっているかもしれないと思いました。

 

医療費がかからない治療なので、お医者さまはあまり研究したくない治療法かもしれません。

 

 

 

さて、食べないという生き方。

人が食べることから解放されたら、世の中の苦しみや争いごとの多くが無くなるのではないか? と私はずっと以前から考えていました。

 

「食べなくてもよいなら、どんなに気楽だろう」。こんなことをもし巷で発言したら、普通の人から変な顔でみられるのがオチですが、心のサークルでは、「わかるわかる」という顔をされて頷かれるのだから嬉しいです。

 

USさんから、ひとつ注意がありました。

 

食べないという究極の生活をむやみに真似をするのも危険。

肉体には栄養が必要なことも、確かなことなので、やり過ぎは注意しましょう。

シルバーバーチも中庸が大事と説いているので、参考程度にして自分の中で咀嚼するのがよいと思います。

 

不食の話でひとしきり盛り上がったあと、いつもの通りSNさんのクリヤヨガ瞑想でみんなの気持ちを一つにし、

シルババーチの祈りの後、いよいよ第6章の輪読です。

 

 

6章 婚約者を不慮の事故で失って

 

恋人を飛行機事故で失った女優との対話です。

思いがけず大事な人を亡くせば、どんな人でも喪失感に包まれ、悲しみの淵に追い込まれると思います。

この世の死が本当の死ではないと知っている人と知らない人では、その悲しみとの対峙の仕方も全く違うものになるでしょう。

 

あなたは本当に勇気のある方ですね。でも勇気だけではだめです。知識が力になってくれることがあります。ぜひ理解して頂きたいのは、大切な知識、偉大な悟りというものは悲しみと苦しみという魂の試練を通してはじめて得られるものだということです。人生というものはこの世だけではなく、あなた方があの世と呼んでおられる世界においても、一側面のみ、一色のみでは成り立たないということです。光と影の両面が無ければなりません。光の存在を知るのは闇があるからです。暗闇が無ければ光もありません。光ばかりでは光でなくなり、闇ばかりでは闇でなくなります。同じように困難と悲しみを通してはじめて魂は自我を見出していくのです。もちろんそれは容易なことではありません。とても辛いことです。でもそれが霊としての永遠の身支度をすることになるのです。なぜならば地上生活のそもそもの目的が、地上を去ったあとに待ち受ける次の段階の生活に備えて、それに必要な霊的成長と才能を身につけることにあるからです。P99

 

 

悟りとは試練を通してはじめて得られるもの。つまり体験なしでは悟れない。辛い思いをしなければならないのが運命のようです。

乗り越えられる困難しか与えられない。霊性が高ければ苦難のハードルも上がる、ということなんだろうなと思います。そういえば立派な人だなぁと思う人にかぎって苦難の多い人生を歩んでいるのはそういうことなのかもしれません。

もし苦しみが本格的になってきたと感じたら、新たな挑戦区域に入ったと理解し、自信と感謝をもって迎えることができればいいですね。苦難でありながら感謝だと思える。それは上級者の境地なんだろうなぁ。

 

知識だけでは机上の空論。その空論が体験を通じてはじめて力になる。知識と体験、その相互関係は糾える縄のごときだなと思いました。

 

そしてその先に知識に対する責任が生じてきます。霊性が未発達な魂よりずっと丁寧に生きねばなりません。知識に沿わないことをしていると、因果応報の感度も鋭くなりすぐにその結果がでるようです。小さなことすべてで知識にのっとった生活することを自覚せざるを得ない。これもまた大へんだなと思うのでした。

もっとも、理解が深まればなにがあっても穏やかな気持ちへ到達するのだと思います。

 

死は消滅ではありません。霊が別の世界へ解き放たれるための手段にすぎません。誕生が地上生活へ入るための手段であれば、死は地上世界から出るための手段です。P101

 

このことを知れば、この世での別れに対して大きな慰めになると思います。 しかし喪失感に耐えなければならない時間は必要ですね。

 

恋人がちゃんと霊界へ行きついたか心配している様子が書かれています。

突然の死は本人にとってもショックが大きいようです。時間をかけて慣れる必要があると答えています。

 

「死ぬときは苦しがったでしょうか?」

「いえ、何も感じておりません。不意の出来事だったからです。」p107

 

そんなもんなんですね。見た目には悲惨な事故でも、「痛み」はない。それはとても慰められます。

死は自然なこと。自然は魂を傷つけたりはしないのだろうと思うのでした。この世の出来事すべては、自分が作り出す”恐怖心”が怖いのであって、実際はなにも怖いことではないのかもしれないなと思います。

 

 

近藤先生の補足部分を抜粋。

 

死後無事に霊界の生活に正しく順応していくことは必ずしも容易ではないのである。そこには本人自身の迷いがあり、それに付け込んでさまざまな誘惑があり、また、強情を張ったり見栄を捨てきれなかったりして、いつまでも地上的名誉心や欲望の中で暮らしている人が実に多いのである。(p109)

 

死んでも欲から解き放たれずにいるのは御免こうむりたいですね。

また、邪霊に狙われて正しい場所へ行けない霊もいるようです。

 

 

ではそうならないためにはどういう心がけが大切か———これは今更私から言うまでもなく、それを教えるのがそもそもシルバーバーチ霊団が地上に降りてきた目的なのである。具体的なことはこうして霊言集をお読みいただいている方には改めて申し上げるのは控えるが、ただ私から一つだけ付け加えたいのはあちらに行って目覚めた時に、かならず付き添ってくれる指導霊の言うことに素直に従うことが何より大切だということである。(p109)

 

指導霊が付き添ってくれるんですね^^よろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

~ 次回 “第73回 心のサークル”のご案内 ~

【と き】  2016年9月25日(日)、14時~17時 

【ところ】 宮城県歯科医師会館地下1階(仙台市青葉区国分町1-5-1

      入り口は正面玄関ではなく裏口になります。

      窓口に医師会館の方が常駐していらっしゃいますので、わからない時は声をおかけください。

【内 容】 『シルバー・バーチの霊訓(6)』の読書会:7章、談話

【持ち物】 上記書籍をご持参ください。

【参加費】 喜捨

【参加者】 シルバー・バーチの霊訓に関心があり、向上進化を目指す方どなたでも。

     日常を離れた空間で、ともに学びましょう!

新しく参加希望の方は、本ブログコメントにてご連絡頂けますと幸いです。お気軽にお尋ね下さい。なお、コメントを入れる際の認証はすべて半角で入力お願いします。

又、これまでのメンバーの皆様は、事前にお知らせしている、出欠係の柴田までメールにてお知らせください♪