心のサークル(blog版)

心のサークルは、スピリチュアリズムを学べますが、オープンな初心者向です。

スピリチュアリズムから得た十訓

私が、長年信奉していますスピリチュアリズムから得た十訓を紹介します。

1)すべてに時がある。
2)この世で乗り越えられない障害を神は与えない。
3)あなたは1人ではない。
4)お金は必要な時必要なだけ与えられる。
5)意識を高く持つ。
6)常に祈りを欠かさない。
7)人生をじっくり味わう。
8)結果よりも動機が大切である。
9)人のために生きる。
10)霊魂は、不滅である。

そして、すべての人に、すべての動物に、すべての植物に、地球上のすべての命に、愛を与えなさい。

以下具体的に述べます。

1)すべてに時がある
 生前、霊的真理を学ばず、唯物的で刹那的で利己的な生き方をしてきた人々の中には、死の自覚の無いまま、幽界下層で地縛霊となる人々がいる。あくまでも、カルマの法則により、囚われの世界で彷徨いながら自ら罪を償わなければならない。そんな彼らにも、霊界では、霊人たちの直接的な奉仕活動により、組織的な救済の道が待っている。しかしながら、地縛霊の意識が覚醒する時期がこないと、自ら救いの道を受け入れられない。救済には、時がある。 
 スピリチュアル・ヒーリングでは、霊医からの治療エネルギーが、潜在意識に流れ込むことで、最高次の魂レベルの治癒が起こる。その際、患者の方が霊性に目覚めて、悪いカルマが解消されていることが不可欠である。病気がヒーリングによって完全に治ったと言えるのは、患者側にその時が来たという必然性がある。通常の肉体レベルの治療とは、大きく異なる。治癒には、時がある。
 スピリチュアル・ヒーリングが、精神病に絶対的な効果を示すことがあるのは、患者が苦しみの中から心の浄化を経て、カルマの償いができた時である。通常の除霊では、一時的に霊が離れるだけなので、患者本人の意識レベルが変わらない限り、永続的な効果は期待できない。精神科医ウィックランドなどの除霊治療の症例のように、患者本人の意識の目覚めとタイミングが一致すれば、驚異的な治癒率を示す事がある。
 人においては、意識が最も大切であることは言うまでもないだろう。敷衍すれば、たとえ事がうまくゆかなくとも悲観する事はない。天は全てお見通しなのである。霊的な成長も人それぞれ、内容やペースが異なる。何事にも必要な時があるのである。

「どうか不治の病という観念はお持ちにならないでください。そういうものは存在しません。治らないないのは、往々にしてその人の魂がまだそうした治療による苦しみの緩和、軽減、安堵、ないし完治を手にする資格を身に付けていないからであり、そこに宿業(カルマ)の法則が働いているということです。こう申し上げるのは、あきらめの観念を吹聴するためではありません。たとえ目に見えなくても、何ごとも摂理というものが働いていることを指摘したいからです」(「霊的新時代の到来」より)


2)この世で乗り越えられない障害を神は与えない
 この世の障害は、何かを学ぶためにあり、それによって、人としての人格が向上すると言える。障害を前にして、自分の身の上を嘆いたり、怖れたりして、悲観的になる必要はない。天は背負いきれないような障害は与えないし、大きな苦しみの果てに天の光りが見えるのである。真の自我と向き合うことができるのである。
 驚異的な精神力で、多重苦を乗り越えた人物として、ヘレンケラー女史、「心の手足」の中村久子女史等が頭に浮かぶが、シルバーバーチの霊媒モーリス・バーバネル著「霊力を呼ぶ本」の中にあったノルウェー人のアニー・テレフセン女史も驚くべき人物である。15才の時に肺結核になり、何度も手術を受けた。その結果、20代で四肢を失った。社会的に自立しようと思いついた仕事が、口を使って編み物をする事だった。やがて、肩と口とを何とか駆使して刺繍をすることを会得し、想像を絶するほどの労作で作り上げた作品は、バザーで、好評を博するほど素晴らしかった。おかげで、生活費を賄えるまでになった。ついに、70才の誕生日の時に国王から金メダルを授与されるまでになった。国王は彼女が製作した美しい作品だけでなく、女史のユーモアのセンスも特にお褒めになったという。障害を乗り越えた自信と明るさに溢れた信仰心の厚い方だったようだ。女史は、50年間両手両足のない人生だったが、私の人生は幸せだったと答えている。
 こう述べると、星野富弘氏の富弘美術館の前にあった「土の中の豆」と書かれた碑を思い出す。星野氏の人生を象徴する感動的な聖書の教えである。

「わたくしは
あなたのみおしえを
喜んでいます
苦しみに会ったことは
わたくしにとって
しあわせでした  (詩編119)」

 人生を不幸にするのは、障害ではなく、障害を前にした怖れである。恐怖は心を曇らせる。試みる前から、失敗を怖れてはいけないのである。

「あなた方は個性の強化のために地上界へ来ているのです。その強化は日々の難問にどう対処すかによって決まります。そのとき忘れてならないのは、地上界で生じる難問には人間の魂に内在する霊力で克服できないものはないということです」(「シルバーバーチは語る」から)

3)あなたは1人ではない
 あなたは1人ではない。常にガイド(守護霊)が強力な愛の絆であなたを見守っていることを忘れてはいけない。嬉しい時も悲しい時も溢れる感情を共にして傍らにいるのである。どんなに苦しくとも命を大切にしていただきたい。

「あなた方は一時として独りぼっちでいることはないこと、周囲には常にあなた方を愛する大勢の人々が見守り、導き、援助し、鼓舞せんとして待機していることを知っていただきたいのです」(「シルバーバーチは語る」より)

「地上の友だちがすべて逃げ去り、自分1人取り残され、誰もかまってくれず、忘れ去られたかに思えるときでも、背後霊の存在を知る者は、霊の世界からの温もりと親密さと愛があることを思い起こすことができます」(「最高の福音」より)

4)お金は必要な時必要なだけ与えられる
 この地上は、神の創造物なので、すべては、神の所有物である。その一部が、我々の所有物になるのであり、それも生きている間だけである。神は、必要以上の所有物を、我々には、けっして与えないはずだ。その証拠に、余分な食物は、腐り、衣服は、黴たり、虫がつく。使え切れないものを蓄えてはいけないという教訓として捉えることもできる。
 基本的に、お金は、霊性向上には役立たない。そして、神の使徒として人の為に生きている者は、飢えに苦しむことはないとシルバーバーチは伝えている。常に真我に照らし合わせて意識を高く持って生きようとする者には、心強い言葉である。

「お金は霊的成長とは何の関係もないこと、進化は各自の生活そのものによって決まっていくのであり、それ以外にないことを言いたいのであう。困ったことに、地上の人間は、直面する物的問題に心を奪われて、つい間違った人生観を持ってしまいがちですが、いついかなる時も、霊的真理を忘れないようにしないといけません。これだけは永続性のある霊的な宝であり、いったん身につけると、二度と奪われることはありません」(「最高の福音」より)

「霊の道具としての仕事に励んでいる者は、物的生活の必需品に事欠くことには決してなりません。こちらから用意してあげます。飢えに苦しむようなことにはなりません。渇きに苦しむようなことにはなりません。きっと何とか切る抜けられるものです」(「シルバーバーチの霊訓11」より)

5)結果よりも動機が大切である
 最後に頼るのは己の意識であり、何をなしたかということよりも、その動機が問われる。罪の意識が動機の中にあって、罪を犯すのは、より罪が重い。逆に動機がより純粋であれば、犯した罪は、より軽いというのが、あの世の法則である。より純粋かどうかとは、より利他愛に基づくかどうかである。反対に利己愛(エゴ)に基づく行為は、意識が低い、肉欲的行為とみなされる。結局、意識を高めるためには、シンプルな言い方だが、他人のために生きることである。神が創造したかけがえの無い地球生命系のために、神の使徒として生きる事である。

「人は自由意志と、是非正邪を見分ける意識を与えられている。何事も動機が肝心。動機は何か、万事動機によって決定せよ。他は問題ではない」(「シルバーバーチ霊言集」より)

 ただし、たとえ、動物実験のように、動機が善であっても、実験の対象となる動物を苦しめるのは、同意し難いとしている。動物も人類もお互いを助けるために発生した。生体解剖のような神の法を犯した動物実験では、全ての病気に対する治療法を見つける事はできないし、いずれ克服できる癌の治療法も動物実験では発見できないだろうとシルバーバーチは、説いている。動物実験が、近代科学に多くの寄与を与えている事は事実であろうが、多くの動物の犠牲の上に成り立っている事を忘れてはならない。また、実験結果における種の違いの影響は、常に否めないようである。

「神の被造物のいずれに対しても、苦痛を与えることは間違いである。ただ無知のために、自分が与えた苦痛に気付かず、単に人々を救いたいという動機だけに駆られて、動物虐待する多数の者がいる。彼らもやはり法を破る者である」(「シルバーバーチ霊言集」より)

「暗闇にいる人に光を見出させ、苦しみに疲れた人に力を与え、悲しみの淵にいる人を慰め、病に苦しむ人を癒し、無力な動物への虐待行為を阻止することができれば、たとえそれが、たった一人の人間、たった一匹の動物であっても、あなたの地上生活は十分価値があったことになります」(「シルバーバーチ 今日のことば」より)

6)意識を高く持つ
 中村 久子女史は、三重苦の聖女ヘレンケラー女史が、来日した時に、私よりも不幸な人がいると言わしめた人だ。まだ明治時代の幼少の頃、病気で両手両足を切断した。母親は、重度の障害を持つわが子が、口と残された両腕の断端を使って、自立できるように血のにじむような厳しいしつけを行った。やがて、家計を助けるために19歳で見世物小屋へ身売りをしたが、しつけが助けとなり、なんとか生計を立てることができた。ある時、書を教えてくれた僧侶が、「泥の中のハスになれ」と言ってくれた。この言葉が、彼女の大きな支えになったという。

 泥の中にあってもハスはやがて美しい花を咲かせる。幼少の時からの壮絶な労苦が、命のエネルギーを心の深奥に充電していき、やがて光輝く時がくる。魂の試練が、大きければ、大きいほど、得るものは大きい。

 その後、結婚し、二人の子供を得た。その時、初めて、鬼のように厳しかった母親の深い愛を理解することができた。親として見守ることの辛さに気が付き、できない我が子に手を出していたら、今の自分は、無かったろうと悟る。そして、義足を得て、初めて自分の足で歩ける喜び。ついに、生かされている喜びをしみじみと感じる時が来た。やがて、ヘレンケラー女史との出会いが、目を社会に向けさせ、講演活動が始まり、障害者の自立に尽力を尽くす奉仕の半生へと繋がっていった。彼女の人生は、今でも多くの人々に勇気と感動を与えてくれている。実に真摯で、賢明な人であったろうと思う。

 肉体は、欠けても、意識は、欠けない。意識こそ自由であり、何人も拘束できない。貧すれば、鈍すではいけない。どのような状況の中にあっても常に意識を高く持って、生きていれば、必ず道が開けるのである。

7)常に祈りを欠かさない
 高級霊界通信は、いずれも瞑想や祈りの必要性を訴えている。瞑想や祈りを実践することで、地上界で希薄化した霊的意識を呼び戻し、神や守護霊と深く繋がることで、霊的エネルギーを補給することになる。利己主義を捨て、霊主肉従に生抜くためには、たとえ短い時間であっても、日々この祈りの一時がどうしても必用だ。
 霊的意識を上げて行くには、三つのステップが不可欠である。まず、準備段階として、1人だけの静寂な場所と時間が必用である。次に、既存の宗教のように呼吸法、瞑想法、断食、音楽などを実践しても良いが、高級霊界通信などを精読して、霊的意識を高揚させる。最後に、神に語りかけ、魂の触れ合いを求める。人々の役に立ちたいという純粋な動機に基づく、愛に満ちた利他的行為や奉仕の願いは、必ず守護霊を介した神の援助が得られるようだ。この三ステップを踏むことにより、ヨーガにおけるニルバーナの世界のような、神と一体となった至福体験ができるのである。
 また、TM瞑想法、ダイナミック瞑想法、イメージ瞑想法、ビジョンクエストなど様々な瞑想法があるが、自分にあった瞑想法を選択すべきだ。
 瞑想は、霊的世界との接近が伴う。幽界の低級霊が入り込む隙を作らないように、霊性の向上を願うような利他的な動機を常に持ち続けることが、必要である。特に霊媒体質者は、瞑想よりも霊的真理を述べた本を読むように努める方が、安全なようだ。瞑想により出現してくるサイキックな現象に対しても、平然とした態度で望みたい。

 ヘミシンク法も瞑想法の一つになるので、常に祈りを捧げてから臨む方が安全である。霊性の向上という純粋な動機を持ち続け、かつ、自戒しながら、霊的世界とアクセスすることが、最も望ましいと私は思っている。また、遭遇したヴィジョンに振り回されないように、検証する姿勢も大事にしたい。客観性が低い暗在系の世界を対象とするが故に。

『祈りとは唯一つしかない。即ち「どのように奉仕したらよろしいか、お教えください」これである。この神と人類への奉仕の願い、これより大きな仕事はない、これよりまさる愛はなく、これに過ぎる宗教も哲学もない。どの道で奉仕するかは問うところでない。たとえば神法の真理を述べ伝えるか、飢えた人に食を与えるか、または苦しむ人の心から悩みを取り除いてやるか、道はそれぞれ違っても、肝心なことは唯一つ、いかにひたすら奉仕するか、このことである』(シルバーバーチ霊言集より)

「たびたび申し上げてきたように、祈りとは波長を合わせることです。すなわち私たちの意志と調和させることであり、神とのつながりをより緊密にすることです。そうすることが結果的に私たちの生活を高めることになるとの認識に基づいてのことです。意識を高めるということは、それだけ、価値判断のレベルを高めることになり、かくして、自動的にその結果があなた方の生活に現れます 」(「シルバーバーチ今日のことば」より)

8)人生をじっくり味わう
 暗い世界から、誰しも立ち去りたいと思うのは、当然だが、だからといって精神世界に逃げ込み過ぎるのもよくない。偏った唯物主義もよくないが、偏った唯心主義もよくない。この地上に肉体を持って生を受けたということは、バランスが大切なのである。暗い世界から逃げるのではなく、意識の中で明暗の世界を受容することはできないか。二元性の世界は、互いの世界を深く理解するために必要なのである。そして、眼前に起こるあらゆる現象をじっくり味わうことで、やがては、永遠の目を持って人生を達観できるようになるだろう。
 スピリチュアリズムから得た様々な教訓をどう日常生活に表現するか。それこそが私に与えられた課題のように思う。そんな事を考えながら、今日も走り終えると、霊的な力が沸き上がってくるのを覚える。前にも走禅と述べたが、私にとっては、ゆっくりと内省的に走っている時間は、自分と向かい合う瞑想の時間でもある。そして、すべての不断の生活に言えることだが、霊力をもって肉体を有する不自由な世界を制することで、より神的世界との絆が深まるように思える。表在意識に惑わされることなく、常に潜在意識の中の高い部分と繋がることができるように残された人生を熟慮して生きたい。

「地上生活の究極の目的は、失敗から教訓を学び、転んでは立ち上がり、日々の生活の中の冒険的な出来事に一つ一つ対処し、しかも他方においては、自分が本来は霊であり肉体は道具にすぎないこと、したがって大切なのはその霊に及ぼす影響であるということを忘れずに、常にそれを優先させて、基本的な霊的真理を守りぬくことです」(「シルバーバーチ 今日のことば」より)

9)人のために生きる
 この事に関しては、今までも何度となく述べてきた当たり前のような教えだが、いくつか、シルバーバーチの霊言から紹介する。
 自分のために生きることを卒業し、人のために生きる事のみを考えて、無心で奉仕するだけで良い。そうすれば、カルマの刈り取りも自己に対する癒しも自然にかなえられていることに気付くだろ。こうして慈愛に満たされた意識には、次元の扉を越えて、神の前に真の魂の自由が得られるのである。普遍的な霊的真理はこの教えのように実にシンプルなものだと思う。人々に実相を説き、不朽の真理の道に導くには、どのような職業に携わっても、いかなる立場にあろうともできることではないだろうか。

「人のために自分を役立てることは尊い行為です。あなたの望みどおりの分野で仕事ができなくとも、人のためになると思うことを、その時その時に行えばよろしい」(シルバーバーチの霊訓10より)

「人のために己を棄てる仕事にもいろいろあります。あるものは一目につく派手なものであり、あるものは一目につかない静かな聖域で行われます。いずれにせよ大切なのは人のために役立つことであす。霊的真理の悟りを1人でも多くの、受け入れる用意のできた人に施すことです。不安と恐怖に満ち、数知れぬ人々が明日はどうなるかと案じつつ生きているこの世においては、人生とは何かについて、表面的なことではなく、真実の相を教えてあげなくてはなりません」(シルバーバーチの霊訓1より)

「霊は生命の創造力であるからこそじっとしていることができず、どこかに新しい捌け口を求め、従って満足することがないのです。何も霊媒現象を通して働くばかりが霊力ではありません。芸術を通じて、哲学者を通じて、あるいは科学者を通しても発現することができます。要するにあなた方自身の霊的自覚を深める行為、あなた方より恵まれない人々に何か役立つ仕事に携わることです。看板が何であっても構いません。かかわる宗教、政治、芸術、経済がいかなる主義・主張を掲げようと問題ではありません。実際に行う無私の施しが進化を決定付けるのです」(シルバーバーチの霊訓1より)

 幾多の艱難辛苦は、多くの学びを与えてくれる。そういった体験をした者こそが人のために役立つ者となる真の資格がある。度重なる労苦に打ち勝った者は、人々を導く役目があるということだ。自分の境涯を不幸だ、不運だと嘆く必要はない。それを踏み越えれば、後の人生で、神の使徒として人々を導く光栄な使命が待っているかもしれないのである。

「最大の貢献をなさんと心がける人は、困難や難問を避けようとしてはなりません。その困難、その難問こそが、そうした志を持つ人々の魂の奥底を堀起こし、奉仕の仕事に役立つ道具として、ぜひとも備えねばならない隠された資質を活用させることになるからです」(シルバーバーチの霊訓1より)

「人助けをするための霊的才能を授かるには、自ら苦しみと悲しみを味わうという条件が付きものなのです。霊の道具として自覚を持つに至るには、苦を体験しなければならないということです。苦の体験の本質は、霊的才能を手段として仕事をする者の試金石です。それを耐え抜いて、自分のもとを訪れる人の力になってあげることができるのです」(シルバーバーチの霊訓11より)

10)霊魂は、不滅である。
 近代スピリチュアリズムは、霊的真理を説くことを主眼としているが、魂の永遠性を説く事に集約されると言っても過言ではない。肉体は滅びても、魂は永遠不滅であり、肉体の死は、節目にしかすぎない。死は、永遠の命の前に無力である。死からの解放は、真の自由もたらす。こうして、人生は、やり直しができ、失敗を恐れる必要はなくなる。人生に係るあらゆる障害に対して果敢に挑むことができるだろう。艱難に対して何度でも挑戦し続ける無限の霊力を実感できるのも、霊魂不滅を信じればこそである。

「人間は肉体をたずさえた霊であり、霊を宿した肉体ではありません。物質は霊のおかげで存在を得ているのです。霊こそ永遠の実在です。霊が破壊されることはありません。滅びることもありません。不死であり、無限です」(「シルバーバーチ今日のことば」より)

「死ぬということは、霊が肉体から脱皮して姿を現す過程のことです。何一つ怖がる要素はありません」 (「シルバーバーチ今日のことば」より)

「常に上を向いて歩んでください。下を向いてはいけません。太陽の光は上から差します。下からは差しません。太陽は永遠の輝きの象徴です。霊的太陽は啓蒙と活力の源泉です。内在する霊に刺激を与えます。自分が本質において永遠なる存在であり何事も修行であることを忘れぬかぎり、何が起きようとも意気消沈することはありません。霊性は書物からは得られません。先生が授けるものでもありません。自分自身の生活の中で,実際の行為によって体得しなければなりません。それは個性の内部における神性の発芽現象なのです」(「シルバーバーチの霊訓1」より)

 やり直しのチャンスは全ての人に与えられている。いかなる状況においても決して絶望してはいけない。与えられた人生を真面目に正直に真摯に精一杯生きよう。

「やり直しのチャンスが与えられていないとしたら、宇宙が愛と公正とによって支配されていないことになります。墓で埋められて万事が終わるとしたら、この世は実に不公平だらけで、生きてきた不満の多い人生の埋め合わせもやり直しもできないことになります。私どもが地上の人々にもたらすことのできる最高の霊的知識は人生が死をもって終了するのではないということ、従って苦しい人生を送った人も、失敗の人生を送った人も、屈辱の人生を送った人も、皆もう一度やり直すことができるということ。言い換えれば、悔し涙を拭うチャンスが必ず与えられるということです。人生は死後もなお続くのです。永遠に続くのです。その永遠の旅路の中で人間は内在している能力、地上で発揮し得なかったチャンスが与えられ、同時にまた、愚かにも摂理を無視して他人の迷惑も考えずに横柄に生きてきた人間は、その悪業の償いのチャンスが与えられます。神の公正は完璧です。だますことも、ごまかすこともできません。すべては神の眼下にあります。神は全てをお見通しです。そうと知れば、真面目に正直に生きた人間が何を恐れることがありましょう。恐れることを必要とするのは利己主義者だけです」(「シルバーバーチの霊訓1」より)

                   (Uさんのブログ「アセンション2012」から転載編集)